日本百選に選ばれるa会津の名城鶴ヶ城
630年前に建立された鶴ヶ城、正式名称は若松上で福島県会津若松市のシンボルだ。
本丸を中心に周囲を3つの丸が囲む鶴ヶ城は会津藩の政治の中心であった。
その藩主が徳川家康と関係があったことから幕末の戊辰戦争で激戦区となったという経緯がある。
戊辰戦争では新政府の総攻撃にも耐えた名城であるが、明治政府に白虎隊の悲劇とともに一度取り壊された悲しい歴史を持つ。
再建されたのは昭和40年であることから、現在では鶴ヶ城は観光名所として賑わう場所となっている。
シンボルは赤瓦の5層の天守閣
鶴ヶ城のシンボルとして赤瓦の5層の天守閣は外すことができないものだ。
赤瓦になったのは10年ほど前の再建によるものだが、この姿が戊辰戦争以前の本当の姿である。
赤瓦の天守閣を持つ城は鶴ヶ城だけであるため、その雄大な姿を一目見ようと観光客は後を絶たない。
確かに城壁と赤瓦の組み合わせの天守閣は雄大であり優美であり珍しく、必見の価値はあるものだ。
現在その天守閣の1層から4層までは博物館となっており、この地で最期を迎えた白虎隊についての資料はもちろん、武器などの展示も豊富で歴史好きにはたまらないはずだ。
5層目は展望台になっていて、会津の街を一望できるし、白虎隊が最期を迎えた飯盛山が遠くに見えるのもまた趣がある風景だ。
麟閣千利休の子が建てた茶室
鶴ヶ城一帯は公園となっていて観光や散策が楽しめる。
その公園内には千利休の子・少庵が建てたといわれる麟閣という茶室がある。
この茶室は福島健指定重要文化財に指定されいて、一見の価値がある。
独立した茶室は草庵風といわれて東日本では珍しいものであったため、戊辰戦争後鶴ヶ城が取り壊しになったときも茶室だけは上かに移築され守らていた。
それが元々の場所に再移築されたのは平成に入ってからであるが、本来の位置にもどった茶室で、また幕末の歴史を感じることができるのだ。
利用料が少々お高いことは気になるところだが、豊臣秀吉の逆鱗に触れた千利休のその後と千利休の子供の歴史を学ぶことのできるいい機会にもなるはずだ。
幕末の激動の時代の舞台である鶴ヶ城
鶴ヶ城は会津藩主と徳川家康の関係から新明治政府との激戦の地となった。その姿は雄大であったが取り壊しを余儀なくされて、再建されて原型に戻ったのは茶室も含めてごく最近のことである。
それは確かに歴史の傷跡跡でもあるが、それにより本来の鶴ヶ城を観光できるのは大変魅力である。
日本で鶴ヶ城しか持たない赤瓦の天守閣から飯盛山を眺めれば、白虎隊が散った激動の時代を垣間見ることができる。
会津若松には鶴ヶ城観光以外にも魅力がたくさんある。
会津まちなか観光に立ち寄れば伝統産業や工芸にも触れられて合図若松の文化を更に知ることができるだろう。